エッセイ


エッセイ8
「酔っ払い運転の車に乗るくらいなら…」
牧口一二(まきぐち・いちじ)
 もう20年も前になるだろうか、障害者への差別語が問題化し、物議をかもしていたころだ。一枚のポスターに出会い、強い衝撃を受けたのだった。そのポスターは交通安全を啓発するもので、世界的に知られる全盲歌手、スティービー・ワンダーの横顔(ライブ中の写真のよう)を大きく扱い、キャッチフレーズが「酔っ払い運転の車に乗るくらいなら、俺が運転するゼ」となっていたのだ!
 ブラックユーモアかな? 一瞬ドキンとしたけれど、すぐにスカッと突き抜けた気分になった。ビッグな全盲の歌手が、酔っ払い運転のひどさを警告しているのだ。目の見えない自分が運転したほうがマシだ、と。なんと洒落た表現だろうか。
 このキャッチフレーズは、スティービー・ワンダー自身のセリフなのか、ポスターを制作した会社のアイディアなのか、私は知らない。が、どちらにせよ彼が了解した上で作られたことはまちがいない。こんな思い切ったポスターが制作できるアメリカ社会を羨望したのだった(いまの星条旗一色の、「テロか正義か」と叫ぶアメリカには失望している。が、20年前にこのポスターを作ったアメリカのこと、もっと懐が深いはずだが…)。
 ポスターの背景に、障害者が一市民としていきいき息ずく社会が見えてくる。障害を個性やクセぐらいに(本気で)感じなければ、この発想は出てこない。仮に出たとしても、いまの日本社会は受け入れないだろう。

 ちょうど同じころ、日本の交通安全キャンペーンポスターが「障害者を差別している」と話題になった。ポスターは、あるレンタカー会社のもので、誰も乗っていない車いすの写真を大きく扱い、その後ろに小学校5年生ぐらいの男の子がうつむいて立っている。そしてキャッチフレーズは「この車には乗せたくない、乗りたくない」とあった。つまり、交通事故を起こすと死なないまでも車いすの身になりますよ、そして家族(ここでは小学生)を悲しませますよ、と訴えているのだ。
 20年前といえば、日常に車いすを使っている市民が、なんの設備も配慮もないバリアだらけの町へ果敢に繰り出していたころで、彼女ら彼らは「われわれの存在を否定しているポスターだ」と、抗議をはじめた。
 レンタカー会社は当初、なぜ抗議を受けるのか理解できなかった、という。「あなた方を差別する気持ちなどまったくない。でも、車いすの身にならないよう気をつけるのは当然でしょう」と言い続けた。それほど障害をマイナスと決めつけていたのだ。障害者と健全者とのズレは大きい。

 それから20数年、世間の障害者観は大きく変わりつつあるのに法制度の下ではここ100年旧態依然のままであった。やっと見直されることになって、「できない」と決めつけて門前払いにしてきた法律の条文(絶対的欠格条項)を改め、場合によっては門を開く(相対的欠格条項)に見直す、というわけだ。しかし、障害をマイナスとしか認識できないのであれば根本的な見直しにはならない。
 いま、子どものころに聞いた「北風と太陽」の話を思い出している。たしか、北風と太陽、どちらが旅人のマントを脱がすことができるか、という話だったと思う。結果は、北風が強い風を吹きかけてマントを脱がそうとしても、旅人はかえって吹き飛ばされまいとマントの襟をしっかり握った。太陽がさんさんと旅人に照りそそぐと、思わず旅人は自らマントを脱いだのだった。
 障害者が運転免許を取得できるには、どんな工夫が必要か智恵を絞ってみましょう、という心あたたかな(この言葉、嫌だな。「血の通った」がいい)社会では事故が少なくなるのは当然だ。健全者たちもギスギス、イライラしなくなるだろうから。どのような場面でもいろんな障害者が参加することで社会は血が通ったものとなる。それが活力と柔らかな精神(ユーモア)の源ではないだろうか。
 最後に、冒頭のスティービー・ワンダーのポスターについて一言。全盲者と運転免許の関係さえ法律で決めつけないでほしい。これから先、どんな機械や補助手段が現れるか計り知れないのだから。

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初出
このエッセイは、筆者および、神奈川県秦野市のボランティアグループ「クレリィエール」が発行されている精神保健ミニコミ誌「クレリィエール」2002年3月号から、ご許諾をいただいて、「障害者欠格条項をなくす会ニュースレター18号」(2002年3月発行)に転載しました。
筆者の牧口さんは、会が発足した1999年以来、2003年3月末にバトンタッチするまで、当会の共同代表を担っていただきました。


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